はじめに

書いているひとのこと

初めまして!当ブログを見つけてくださり、ありがとうございます。
在宅ワークでオンライン秘書をしているすみと申します。

え?「オンライン秘書ってなに?」と思われましたか?
そうですよね、馴染みのない方も多いかもしれません。
今でこそオンライン上ではよく見かけるようになったものの、私も最初は「なんだそりゃ」と思っていました。

「オンライン」で「秘書」???
秘書というと、なんだかお堅いイメージ。
コロナの頃、慣れ親しんだ会社でのリモートワークですら神経をすり減らしながら孤独と戦っていたというのに、事務の経歴しかない私が、見知らぬ人とオンラインで秘書として仕事をする…?
そんなこと本当にできるの???

そう思う方もいらっしゃるのではないでしょうか。
でも、それができるんです。
いい時代になりましたよね。

私は元々契約社員でしたが、以前は他人のことも自分のことも諦めていました。
そんな私が40代半ばという人生の折り返しの年齢で、なぜ老後資金を蓄えるために在宅ワークに転向しようと思ったのか。

このブログでは、「オンライン秘書ってどんな仕事?」という疑問にお答えしながら、元契約社員の私が在宅ワークで「オンライン秘書」としてどうやって仕事を軌道に乗せたのか、そしてこれからどのように老後資金を蓄えていくのか、その道のりを綴っていきます。

まずは私のことをお話しさせてください。

基本情報

名前:すみ
性別:女性
生年月日:1978年3月23日
好きなもの:コーヒー、紅茶とカフェを巡ること、ゲーム
生まれ:東京
現在の住まい:京都
座右の銘:今日が人生で一番若い日

幼少期〜私と家族

三姉妹の末っ子。人見知りで、内弁慶。
成績優秀で部活のキャプテンを務めるような活発な姉二人とは異なり、家で一人、お人形遊びやお絵描きをするのが大好きな子供でした。

両親は共働きだったのですが、母親は働きながらも家事の手を緩めることなく、立派に私たち三姉妹を育ててくれました。
母は何に対しても好奇心旺盛。
50歳を過ぎて料理学校に通い、60歳を過ぎて社会人大学を全うし卒業したとてもバイタリティーのある人です。

そんな背中を見て育ちましたので、何歳になっても好奇心を持って取り組めるのって素敵だな、と、憧れを持ち始めたのがこの頃だったと思います。

学生時代と高校卒業

学校ではどこにでもいる、普通の女子学生でした。
中学時代にはテニス部に入部し、身体を動かすことの楽しみや、試合で勝つことの達成感を覚えていきました。
しかし私を待っていたのは、小学生の頃に発病した僧帽弁逸脱
心臓の弁がおかしな動きをしてしまう病気です。

身体の違和感を感じ主治医に相談したところ、大好きだった部活のテニスも辞めることになり、体育のマラソン大会も見学。
人並みの体力をつけることもままならない中、この頃から諦めることが習慣化されていった気がします。

荒波に揉まれた新入社員時代

高校卒業後は営業事務として某物流会社に就職しました。
朝からバリバリ働く営業さんが集中できるように細かなサポートを行うお仕事です。
午前中に顧客からの注文を受けて、午後は営業さんがルート配送に向かいます。
緊張感の中、一つの伝票も間違えることができません。

そんな中、当時の上司からは「『気の利く』仕事ができるようになりなさい」と指導を受けました。
自分の細かいサポートや先回り、根回しが入ることで、営業さんの仕事がやりやすくなり、結果として会社全体の売り上げが上がっていく。
その事実がどんどんやりがいに繋がっていきました。

上司はとても厳しかったです。たくさんのマナーや礼儀を教わりました。
言われたことができなくて悔しくて、お手洗いで思わず涙することもありました。
ただそれ以上に大きかったのが、仕事のやりがいです。
その頃のことは今でも鮮明に覚えていますし、自分の今の仕事に対する真摯な向き合い方に根付いていると思います。

そんなある日、出血と腹痛に見舞われ、婦人科へ。
すると「卵巣腫瘍」が発覚。
良性で手術は成功したものの、先に発病していた「僧帽弁逸脱」も加わり、もう子供は望めないと診断されました。

年齢的に周りの友人が相次ぐ結婚、妊娠、出産の時期だったため、顔で笑って心で泣いて、を繰り返すうちに「諦める自分」が身体に染み付いていった気がします。

東日本大震災とそれから


忘れもしない2011年3月11日。
東京のビルの8階で段ボールを敷いて寒さの中一夜を過ごしました。

余震が続く中、毎日テレビで流れるのは津波のニュース。
荒れ果てた石巻の街並み。原発と放射能に対する不安。
明日何が起きるかわからない事実に衝撃を受けて、このまま自分のことを諦めて過ごすので良いのか?と自問自答をするようになりました。

この頃にいた会社は貿易関係で外国とのやりとりが多く休みや昼夜が関係なかったため、一度ゆっくり今後のことを考える時間を取りたいと思い退職を決意。

それからご縁もあり約2年ほど、福島第一原発難民の子供達を栃木の日光で一定期間受け入れるボランティアのお手伝いをすることに。
自宅待機が余儀なくされていましたから親御さん方もストレスを抱えており、お子さんを預かる間、ほんの少しの息抜きができるように。
誰かのために何かができることに幸せを感じる毎日を送りました。
その中で、これからどうしていきたいのか、大自然の中で素の自分と向き合い、じっくり考える時間をとったんです。

今まで営業事務を経験してきた自分は、前に出るより誰かのサポートをするのが好き。
一歩下がったところから援護・牽制射撃をすることにやりがいを感じていましたし、自分がどうであれサポート相手が幸せであればいい。
ずっとそう思っていたんです。

そんなある日、子供たちの表情を見て気付いたことがありました。
彼らは、私が笑っていると嬉しそうに笑い、私が落ち込んでいると敏感に気づく。
私自身が満たされていないと、相手を幸せにすることなんてできないんだ。
そう、はっきり悟ったんです。

子供達は素直で正直。感受性が強くて順応性もとても高い。
単純な関係性だとしても直感で「相手が幸せなのか、自分を幸せにしてくれるなの人か」を感じています。

大人になればそれは表面に出にくくなるものの、本質は一緒ではないのか…。

自分の人生を諦めるにはまだ早いのかもしれない。
まだ、私にできることはあるのかもしれない。

そんな風に考えるようになりました。

契約社員として働くことの厳しさ

東京に戻って、新しく働き口を探しました。
年齢が30歳を越えていたこともあり、まずは紹介予定派遣として大手メーカーに配属。
後に正社員登用の予定でしたが、その希望は叶わず四年後に契約社員として入社しました。

配属された事業部が「新入社員育成」のための部署だったため、一定のサイクルで異動になる社員を何度も見送り、そのたびに溢れた仕事を引き継ぎながら段々生き字引のような存在に。
年々増えていく仕事を前に何度も正社員登用を訴えましたが、その度に年齢的に厳しいと人事からの回答は変わらないまま。

同じ仕事をしているのに格差が開いていく正社員との手当や待遇…。
それでもやりがいがないわけではないし、他部署の人たちからも信頼されている実感はある。

契約社員で働くことに不安を感じる毎日ではあったものの、以前からやりがいを感じていた他部署や現場のサポートをする仕事だったこともあり、職を失うよりはずっとマシなんだ、と自分に言い聞かせていました。

その頃、日光でボランティアをしていた時に知り合った福島出身のパートナーと同棲していました。
彼は震災の被害者でPTSD(心的外傷後ストレス障害)を患っており、最初の頃は働きに出ることが難しかったため生活費は全額私が出すことに。
同棲途中から就職してはくれましたが、最終的に諸事情により同棲解消。

そして、出していた生活費も含めて口約束で貸していた200万円、全額返すと言い残したまま音信不通の状態になってしまいました。
今ではだいぶ解消されましたが、私の人間不信の礎を築いたのが彼でした。
他人に対する諦めの感情がピークだったのがこの頃。

契約社員では退職金も望めず、貯金もだいぶ減り…。

このまま契約社員で年齢を重ねていく未来を考えると、だんだん焦りが募り始めていきました。

だからといって、生活していけていないわけじゃないから、と、この頃はどこか現実から目をそらしながら生きていた気がします。

京都への移住と、適応障害


契約社員で働き始めて9年が経過した頃、オンライン上で今のパートナーと出会い、時間をかけ東京と京都を行き来しながら少しずつ人間不信も解消。
住みなれた東京から京都へ移住することを決めました。

多少の不安がなかったわけではないですが、信頼する彼もいるしなんとかなるだろうと。
この楽観的思考が後悔するハメになるとは思いもよりませんでした。

京都では運良く正社員登用をしていただき、物流会社で働くことに。
しかしそこで待っていたのは、周りが気付かないようなところで私を何かにつけ目の敵にして罵詈雑言を吐く派遣社員の先輩でした。

小さな部署で、隔離された小さい部屋に、上司がいなければ二人きり。
マニュアルもなく、口頭で説明されたことについていけないと癇癪を起こされる日々。
上司に相談したところで証拠がないため、うまくやってくれ、あなたの方が年上で且つ社員なんだから、の一点張り。

最初は気にしないようにしていましたが、段々精神的に追い詰められ夜は眠れなくなり、次第に食事も喉を通らなくなっていきました。
そのため翌日は集中力が欠け仕事のミスが増え、相手も隙を見つけては言葉で攻撃してくる、の悪循環。

気づいた時には、私の心は限界を迎えていました。

6月のある朝、食べたものを全部戻してしまったんです。
目はチカチカ、意識が混濁している中で思い出したのは、以前のパートナーが発症していたPTSD。
気付かなかったんです。自分がそれに近い症状だったということに。
「ああ、もうだめだ」と悟った私は、上司へ連絡し休みの許可をとり、近くの心療内科を予約。

診察日までは何もする気が起きず、ずっとベッドの上で真っ白な天井を見て過ごしました。
(最近では心の病気を抱える方が多いのか、初診はすぐには見てもらえないんですね。)

診断の結果は「適応障害」。
心と身体を休めるために休職を決意しました。

オンライン秘書との出会い

2024年8月。
だいぶ身体が動くようになってきていた私は、ベッドの上でぼんやりと眺めていたYouTubeで「リモラボ」の動画を発見しました。
(リモラボについては後ほど別の記事で説明させていただきますね)
そこで出会ったのが「オンライン秘書」という働き方です。

  • 昔から誰かをサポートするのが好きだったこと。
  • 気が効く仕事をやりがいと感じてきたこと。
  • 体力に自信がない自分でも、通勤という枠に縛られず在宅で仕事ができること。
  • 事務しか経験がなくても、それが活かせるお仕事いうこと。

ずっと諦めていたことも、手を伸ばせば届く場所にあるのかもしれない。
こんな自分でも、今までの経験を活かしてお仕事ができるかもしれない。

そんな希望がその動画の中にはありました。
さらにその動画の中のロールモデルの方々は、月収50万円稼いでいるというではないですか。

もしかして、自分もそこまで到達できたら、たとえ子供に恵まれなくても、万が一パートナーと別れて(そんなことにはなりたくないですが)おひとり様になっても、誰に頼ることもなく老後資金の不安が解消できるのでは!?
そう確信した私は、すぐに入会を決意しました。

同年10月。
休職していた会社を正式に退社しました。
同じ月にリモラボで「オンライン秘書」のコースを受講開始。

ここでは私がロールモデルとしていた方々の実際の働き方に直に触れ、ますますオンライン秘書で活躍したいという気持ちが大きくなっていきました

そして、他にも数々のセミナーや企画を受けるうちに、長く息ができ活躍するオンライン秘書であり続けるには、クライアントに貢献し続けるには、きっと「Webマーケティング」が必要になる。
そう確信した私は、現在はリモラボの「Webマーケターコース」でマーケティングを学んでいます。

そしてこれから

オンラインでクライアントや同業者と信頼関係を構築してお仕事を獲得するには、自分を表現しわかってもらう努力も大事
オンラインでのお仕事だからこそ、コミュニケーションは必須のスキル。
それをもっと鍛えなければいけないな。

そう思いながらこのブログを書いています。

このブログでは、私がどんな風にオンライン秘書として成長し、目標を達成していくのか、その過程を綴っていきます

1年後、私は月収30万円を達成している。3年後には50万円を超え、老後資金の不安もなくなっている。
そんな未来を現実にするために、今この一歩を踏み出しました。

これからも更新していきますので、ぜひ見守っていただけたら嬉しいです!

ここまで見ていただき、ありがとうございました。